hibinodokusyokirokuのブログ

社会学、哲学を学ぶ大学生。現在留学中。読書、旅、食べることが好きです。

アウシュビッツ訪問を終えて

アウシュビッツ訪問からいつの間にか一ヶ月がたった。少し時間がたったが、大学の授業が落ち着いたので改めて文章にしてみた。

 

なぜアウシュビッツに行きたかったかといえば、ヨーロッパ留学中に訪問しないのはもったいない気がしたし、自分が考えたいテーマにとって重要なことだと考えていたから。そして戦争が引き起こしたことをより深く知るため。日本もまた第二次世界大戦の敗戦国であり、過去の歴史に向き合うことは重要だと私は考えている。しかし日本の授業ではあまり教えられなかったように思う。留学してみると、皆が自国の歴史について話すことができるし、こちらも話すことを期待される場面が何度かあった。そのときになかなか話すことができず、自分の勉強不足ということを差し引いても、戦争の負の歴史についての教育はまだまだ十分ではないと思った。ナチスドイツによるホロコーストの現場を訪れることが、人間が人間に対して陰惨なまでの暴力性を発揮した現実と向き合い、ひいてはそれが日本の歴史や戦争責任についても改めて考えるきっかけになるのではないか。

 

中谷さんのツアーについて調べていたとき、『夜と霧』をお勧めされているとの情報があったので、読むことにした。その後、『これが人間か』も読み、昔読んだ『アンネの日記』と合わせてアウシュビッツに関する有名な書籍は読了してから訪問することができた。『夜と霧』も『これが人間か』も、生還できた人によるものということで共通点はあるように感じた。どちらの内容も、言葉にし難いほどで、ここで言語化することも難しい。どのような表現をしても、軽々しい響きになってしまいそうで、まとめられない。例えば、「アウシュビッツでの生活」と書こうとするとき、彼らが直面していた現実に対して、私たちが日常で使っている「生活」の語を当てることは適切に思えなかった。

 

博物館公認ガイドである中谷剛さんによる日本語ガイドツアーに参加した。写真撮影はほとんどの場所で許可されていたが、報告書を書こうと決めていなければ撮るのが憚られる雰囲気だった(この文章は、ゼミへ簡単に提出した報告書を加筆修正している)。中谷さんは、「ここで何があったか」ということに加え、歴史や背景についても解説された。ツアーは時間が限られているので、事前に関連書籍を読んでいたのが解説を聞く助けになった。実際に行くまで、どれほど感情が揺さぶられるかとかなりの覚悟で望んだが、思ったより心理的なダメージは受けなかった。日本の原爆資料館や特攻平和会館とは展示内容、展示の仕方が異なるように感じた。これは、訪れた他の日本人学生も同じ意見だった。中谷さんがツアーの中で強調されていたように、知ろうとする、考えるきっかけを作るような場として博物館は作られていると思う。遺族の方にとっての追悼の場であることが第一ではあるが、ここで起きたことを知り二度と起こさないためにはどうするべきかを考えていくことが、遺族以外にできる唯一のことのように感じた。

 

撮った写真の一部をここで紹介する。

                     

押収された大量の靴。赤いハイヒールが目をひく


収容される前のユダヤ人にとって、身なりを整えることが、彼らを人間扱いしないナチスドイツへの抵抗、彼らの矜持の表れとしてできることだったそうだ。これを見ているとき痛ましいという気持ちはあったが、どう感じているのか自分でもわからなかった。靴の数に圧倒された。この持ち主たちが、本で読んだような境遇におかれ、もしくはすぐに命を奪われたということをその場で処理できなかった。

 

 

ガス室内部から。入るときに鼓動が早くなった気がする。

この穴は、通気孔だ。ここから看守が「ツィクロンB」を投げ込んだ。ツィクロンBというのはネズミや虫の駆除に使われる。これを使ったというのは事前に読んだ本でわかっていたが、それを知っても理解できない。どうしてこれほどまでに非人道的なことができてしまったのか、どうして人間を害虫扱いできるのか。

 

他にもまだ書くべきことはあるが、このあたりで一度記事にするのは終えようと思う。何を書いても書き足りない気がするし、言葉不足な気がする。

 

原爆資料館や特攻平和会館と違うと感じたのはなぜか、アウシュビッツをあとにして考えてみた。アウシュビッツの展示にあった、押収された大量の靴、鞄、そして切られた髪の毛などから、それぞれの持ち主の個人のストーリーを物語るのは不可能だろうと思う。ある鞄は、その持ち主が判明したようだ。だが展示物のほとんどは持ち主から切り離され、ただ「物」としてそこにあった。膨大な「物」の一つ一つに、不当に普通の生活を、尊厳を奪われ殺された人々がいること、それは想起できる。それでも、靴の山、鞄の山、髪の毛の山と、その中からこれは特定の個人に属するものであると同定することは不可能だろう。そのような「物」だけで個人の経験を語ることはできないように思う。それはいかに彼らが人間として扱われなかったか、収容され物を奪われてなお、人間性や生命を削られながら労働力としてひたすらに「物」化され使われていったことが想起される展示だった。

私の記憶にある限り、原爆資料館や特攻平和会館は、犠牲者の個人のストーリーが読み取れるような展示だった。今の私たちが過ごせているような個人がもっていた生活を惨い形で奪ってしまう戦争の悲惨さや恐ろしさを、どちらかといえば感情面に訴えかける展示のように思う。

どちらの展示が優れているという話ではもちろんなく、収容所で命を落とした人々が徹底的に人として扱われなかったために、その遺物をもとにしたアウシュビッツ博物館の展示が異なるように感じたのだと結論づけたい。

 

冒頭で述べたように、惨劇を繰り返さないためにまずはもちろん歴史を学びたい。加えて私が今後学んでいきたいのは、たとえば権力の構造。ある集団が劣っているとみなした集団を抑圧したり排除したりすることは、悲しいことに現代でも起こっている。それはなぜ起きてしまうのか、どういった言説や社会の慣習がそれを作ってきたのかを考えていきたい。それを哲学を用いながら理論化するのが、当面の目標だ。

 

アウシュビッツを訪ねて

2025年1月、アウシュビッツ=ビルケナウ博物館を、公認の日本人ガイド中谷さんのツアーに参加し3時間半ほどかけて見学した。

 

今回はその覚書で、見学した日の夜ホステルで書いている。粗があろうととにかく記憶が新しいうちに文章にしてみる。

 

留学中に必ず行こうと決めていた場所で、直前に2冊の本を読んで向かった。

1冊は中谷さんもツアーの中で勧められていたヴィクトール・E・フランクルによる『夜と霧』

もう1冊は、プリーモ・レーヴィの『これが人間か』

 

子どものころにアンネの日記は読んだので、アウシュビッツに関する、有名な古典的名著は事前に読んだことになる。

今回のツアーに参加した私個人としては、『夜と霧』を事前に読むことをすすめたい。中谷さんの解説はわかりやすいが、限られた時間で建物を移動するため一つ一つの展示にかける時間は少なくなる。そんなとき事前に読んでいた本が理解を助けてくれた。ページ数もそれほど多くないので数日あれば読み終わると思う。極めてたんたんと綴られるアウシュビッツでの生活に(あまりに酷いのでそれを「生活」と簡単に同じ言葉で表していいのかとも思ってしまう)読まなければならないと強く思わされ、ページをめくり続けた。

 

行ってみて思ったのは、感傷的になる場所ではなく未来のための場所だということ。

刈り取られた何万人もの髪の毛。子供たちを不安にさせまいと、母親がトランクに詰めた細々とした日用品。没収された靴、眼鏡、殆ど再び開けられることのなかったトランク。

こうした展示の数々は痛ましく、本で読んでなんとなく思い描いていたイメージを飛び越えて心に訴えかけてきた。

それでも中谷さんのお話を聞きながら歩くうちに、悲痛な感情は薄れていったように思う。死者を悼むそのために、遺族ではない私が出来ることは嘆くことではなく正しく知り、決してこのようなことを繰り返さないことだ。

 

ユダヤ人だけでなく、ロマや障害者、同性愛者も収容されたことも見逃してはいけない。現代日本において、障害者雇用同性婚は解決していない。ナチスドイツによるユダヤ人の定義は曖昧だったそうだ。「アーリア人」を優れた人種とし、それ以外を劣っているとみなし排除する。「健康な人間」を定義し、そうでなければ障害者とみなす。「男女間の恋愛」を真とし、それ以外を偽とみなす。現代社会で、このような差別構造がそのままになっているのはどうしてなのか。

こうしたことは私が考えたいことでもあるし、きっと私たち世代が解決に向かうべき問題だろう。

 

アウシュビッツを訪れることが若い人にとって、そのあと考え判断することに大きく寄与する。そういったことを中谷さんはおっしゃっていた。今回の訪問はまだ考えることが残っているが、そろそろ日付が変わってしまうのでこの辺りにしようと思う。

 

藤高さんの『ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い』を読んで

余裕のある朝などに、4ヶ月ほどかけて読み進めてきた哲学書をようやく先日読み終えた。

授業で読むのとは違って教授の解説には頼らずじっくりと向き合い、読む気になれないときは放置しながらなんとか読み終えるというのは、以前、何冊も本を読んでいたときの自分のスタイルだった。本が好きになれたのは、親がそう仕向けてくれたにせよ、誰からも強制されず、読んでいる間はその世界に浸れたからだ。

 

哲学書は、フィクションの世界観に浸るという感じではないが、新しい思想と出会い、自分の内面が塗り替えられていく感じがする。

 

今回読んだのは藤高和輝さんの『ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い』

www.ibunsha.co.jp

 

バトラーの著書、『ジェンダー・トラブル』を軸にバトラーの哲学について考察されている。構成は以下のようになっている。

 

序論 生と哲学を賭けた闘い

 

第一部 哲学

第一章 コナトゥスの問い――バトラーと地下室のスピノザ

第二章 欲望と承認――『欲望の主体』を読む(1)

第三章 欲望の主体と「身体のパラドックス」――『欲望の主体』を読む(2)

 

第二部 『ジェンダー・トラブル』へ

第四章 現象学からフーコーへ――八十年代バトラーの身体/ジェンダー

第五章 『ジェンダー・トラブル』とアイデンティティの問い

 

第三部 パフォーマティビティ

第六章 ジェンダー・パフォーマティビティ――その発生現場へ

第七章 身体の問題、あるいは問題としての身体

第八章 メランコリー、そして生存の問いへ

 

第四部

第九章 バトラーの社会存在論

第十章 バトラーのエチカ

 

結論に代えて――共にとり乱しながら思考すること

 

 

ここからは、自分が覚えておきたいことを、文章にしていく。まだ勉強途中なので解釈に間違いがあるかもしれないが、難解な部分は飛ばしたり、引用したりすることで出来るだけ本文に沿った解釈ができるよう努めることにする。引用部分は、イタリック体で表記し、括弧内に参照したページ数を記す。

 

第一部は読み始めということもあり、抽象的な哲学の話が特に難しく感じた。しかし本書が、ジェンダーの問題にとどまらず、そこから生きることを考えていくバトラーの思考の道筋を解説していくためには、当然思想に影響を与えた哲学の解説が不可欠になる。バトラーにとって「哲学」はその出会いの時点から「いかに生きるか」という問題と切り離しえないものだった。(p.20) そのような問題関心はスピノザに関心をよせるうちに、社会的な規範から排除された者が「生存」し、なお「承認」に値する生を送ることが可能になるのはいかにしてか (p.21) という問いになったのではないか、と考察されている。バトラーは、他者性を考察するためにヘーゲル哲学に取り組むようにもなり、そこではスピノザからヘーゲルへの移行がみられ、コナトゥスの定義にも変化が加えられるようになる。生を欲望するコナトゥスは「承認を求める欲望」として再定式化されなければならない(p.25) と考えるようになる。

それはなぜか。そこには「自殺」をどう捉えるかという問題があり、スピノザの「自殺」に関する記述は、自殺をコナトゥスとは内的に関わらないもの、「外的原因」によるものだと位置づけている。しかし、本当にそうなのか、とバトラーは問うことになる。藤高さんがバトラーの『ジェンダー・トラブル』から考察するのは、「ジェンダーの規範」から排除された人が「生きながらにして死を宣告される」状態が存在した/しているということである。(略)「生きながらにして死を宣告される」経験は、社会的な承認の存在しない状況ではコナトゥスが困難であるということを示唆しているだろう。(略)「承認」という社会的概念をコナトゥスが必要とするのは、コナトゥスのみでは「社会的存在」を十全に捉えることができないからである。この点で、スピノザが「自殺」をコナトゥスの本性に即して説明できないのはその証左であろう。スピノザにとって「自殺」はコナトゥスではなく「外的原因」によるものであり、この原因が「社会的なもの」であったとしても。それはコナトゥスとは本質的には関わりのない「外的なもの」であらざるをえない。(略)これらのことはコナトゥスを「承認」との関係で再考する必要があることを示している。コナトゥスは「社会的存在のより柔軟な概念として再定義」されなければならないのだ。バトラーがヘーゲルを会してコナトゥスを「承認を求める欲望」として再定式化し、のちにコナトゥスの思想を「社会的存在」に関する理論として鋳直そうとするのはそのためである。(p.31~34) そして、藤高さんはバトラーの思索を、コナトゥスの問い、「生きながらにして死を宣告された」者たちが投げかける問いに貫かれたものだと考察する。その問いとは、社会から周縁化され排除された者が、「生存」し、「承認」に値する「生」を送ることができる世界とはいかなるものかという問いである。(p.35)

 

第一部では、この問いの確認のあと、『欲望の主体』の読解になる。このあたりは読み進めるのに骨が折れたのであまり内容を振り返ることができない。哲学の知識を増やしてからまた読み返したい。

 

バトラーは『現象学』を「主体を待ちながら」という様態に貫かれたテクストとして位置づける。すでにこの操作は、バトラーのヘーゲル解釈の特徴を浮き彫りにしている。つまり、ヘーゲル的主体とは「絶対者」の到来を待ち続ける主体である。さらに、この主体はその「絶対者」が到来するまで、言い換えれば私たち自身が絶対者であると認識するまで、「これこそが絶対者だ」と確信しながら次の瞬間にはその確信の誤りに遭遇するような主体である。(p.44)

 

バトラーはサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』と『現象学』を類似した構造をもつテクストとしている。『ゴドーを待ちながら』は読んだことがないのだが、私はこの説明を読んだときにカミュの『最初の人間』を思い出した。この思いつきが妥当なものかはわからないが。

 

その後、第二部では現象学からフーコーへと議論は移っていく。バトラーは「行為主体」や「コギト」を前提としない「構築」の理論を確立することを試みたのであり、その際とりわけフーコーの「主体化=服従化」の理論が援用された。(p.106)

 

このあたりも難しかったが、シュナイダー(病人)に関するメルロ=ポンティの記述において描かれた「正常なセクシュアリティ」にバトラーがミソジニーの構造を指摘するところが面白かった。

脱文脈化された女性身体、主体としては生きていないような対象としての身体。(略)

その身体を知覚する主体は男性である。この男性は「奇妙にも肉体離脱した(disembodied)のぞき魔であり、そのセクシュアリティは奇妙にも非-肉体的である」(Butler 1989a:92)  (p.116,117)

 

なんだかおかしい、うさんくさいと思っていた部分が言語化されていてとてもすっきりした。また、私にとって新しかったのは、「家父長制」によって指示される「抑圧する男」と「抑圧される女」という見取り図は、「異性愛規範」を前提にしてはじめて成り立つ構図なのであり、決してジェンダーの抑圧という単一の権力構造によってのみ規定されているわけではない(p.135)ということだった。

現実の、例えば日本に根強く残るジェンダー規範はどうしても家父長制の影響を色濃くみてしまうし、必要な考え方ではあると思うが、その前提に「異性愛規範」があるということはあまり意識したことがなかった。二元論的なジェンダー観の援用は、異性愛を自然化し強化する規範的な政治的システムを無批判に前提してしまうことになる。(p.136)それでは「フェミニズムの政治」はどこに向かえばいいのか。

バトラーが模索するのは、法の外部を想定しない「フェミニズムの政治」である。ここから、またバトラーのフーコー解釈が解説されることになる。ここではフーコーは批判的に読まれるが、それはおそらく「法的権力」と「生産的権力」のフーコーによる区別がそれ自体(フーコーが法に付したはずの)二元論的な構造をもつもの(p.139)だとバトラーが述べているからだろう。

 

バトラーのフーコー解釈を確認したところで、藤高さんはジェンダー・パロディの解説に入る。ジェンダー・パロディの例としては、レズビアンにおけるブッチ/フェムの構造や、ドラァグが挙げられる。これらのパロディが批判されてきた背景には、そもそもオリジナルなジェンダーアイデンティティが存在し、その「真」に対する「偽」としてパロディを位置づけている状況がある。それに対しバトラーが提示するのは、「成功/失敗」という「行為」の水準における尺度である。

 

ジェンダー・パロディはジェンダー・アイデンティフィケーションの「失敗」である。例えば、ドラァグがその「失敗」であるのは、セックス、ジェンダーセクシュアリティ、それらのあいだに想定される「首尾一貫性」の「法」から逸脱しているからである。しかし、この「失敗」が明らかにするのは、セックス、ジェンダーセクシュアリティがそれぞれ「別物」として演じられうることで、「ジェンダーの偶発性」を明るみに出す。セックス、ジェンダーセクシュアリティのこれらの水準が一貫しているわけではなく、むしろその「自然なもの」にみえる「首尾一貫性」が「規範的な幻想」であるということが暴露されるのだ。(p.144より、一部省略)

 

ジェンダー・パロディを「行為」として、「失敗」と捉えることは、オリジナルなジェンダー(だと人々が思っているもの)への同一化も、また等しく「行為」である、すなわち「オリジナル」それ自体が「模倣の構造」を持つことを示すことになる。そのためバトラーは、「現実」になることの失敗、「自然」を身体化することの失敗はすべてのジェンダーの演技に共通する構造的な失敗である(p.146)と言う。

 

オリジナルなものとそのパロディが、実際は「コピーとコピーの関係」だとパロディの実践により明らかになるとき、そこに「笑い」が生まれるとバトラーは指摘している。この「笑い」は、ものまね芸人に対する笑いと一緒なのだろうか。これを考えようと思い、吃音を抱える芸人インタレスティングたけしさんを例にとろうとしたが、吃音とジェンダーではかなり構造が違いそうだと思い、ここでは議論しないことにする。当事者問題などを考えるいいテーマになりそうなのでいつか考えてみたい。

 

バトラーの「フェミニズムの政治」に戻ろう。第二部までの内容で、「女」というアイデンティティは「多層的な権力の配置」のなかで形成されるのであり、それゆえジェンダーだけを「階級や人種、民族、その他の権力関係の諸軸で作られている構築物から分析上、政治上、分離」することはできない(p.148)と明らかになった。

アイデンティティ・ポリティクスはその内部に「他者」ないし「無限のエトセトラ」(GT:196) を抱え込まざるをえず、したがって、そのアイデンティティの「失敗」に直面せざるをえない。このことは、アイデンティティが前提にされるべきカテゴリーではなく、「様々な意味が競合する」場であることを示している。(p/149)

 

このあたりを読んでいて思い出したのは、『女たちのポリティクス 台頭する世界の女性政治家たち』ブレイディみかこ | 幻冬舎という本。2024年からすれば少し前の話題にはなるが、面白い。

 

「女たち」の中の差異、たとえば肌の色、階級、民族、セクシュアリティといったものは、分類するために用いられるべきではない。こうしたフェミニズムのなかの権力概念に対立するときも、バトラーはフェミニズムの内部から批判をしていることが重要である。バトラーにとってアイデンティティの外部」という位置はありえない。その位置はむしろ、フェミニズムがその当初から一貫して批判してきた「普遍」を標榜する「男性的主体」の位置と同じである。(p.131) 「女たち」の差異はそこで用いられている「女」の意味そのものを問う系譜学の試みを要求するものである。それは言い換えれば、「女」というアイデンティティが所与の実体や属性ではなく、それ自体が絶えざる「意味づけのプロセス」にあることを示している。(p.149)

 

バトラーの要求する「フェミニズムの政治」は、このような「意味づけのプロセス」にとどまることを要請する。「女」という言葉でいったいどんな「私たち」を指しているのか、その「意味」を耐えず問うこと。アイデンティティとそれが抱える矛盾やトラブルをも引き受けながら、それを「他者」へと向けて「再意味化」に開こうとする政治のあり方である。(p.152)

 

改めて『ジェンダー・トラブル』というタイトルを考えてみる。ジェンダーはそもそも社会的政治的文化的なものから切り離すことができない。また、あるジェンダーアイデンティティとすることは、どれもパロディという行為を繰り返すことでしかなく、規範的なジェンダーアイデンティティなどない。そのなかで私たちがすべきことは、混乱、トラブルにみちたジェンダーという問題を、その内側で常に問いながら考えること、と言えるだろう。

 

引用ばかりになったが、今回は第二部までで区切りたいと思う。書くより読む方が簡単なので、書くべき本がたまっていき、続きはいつ書けるかわからない。

ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』を原文で読む その2 "When Mr. Pirzada Came to Dine"

邦題は「ピルザダさんが食事に来たころ」となっている。’When’ は「とき」でも「ころ」でも良さそうだが、「ころ」の方が、時間の区切り方として曖昧な印象があり、大まかな時期を示す方が、物語の内容にあっているように思う。

 

10歳ほどの少女の視点で、独立運動中のパキスタンに妻と娘たちを残してきた植物学者との交流が描かれるこの作品は、正直なところ他の好きな作品に比べてそれほど心には残っていなかった。しかし、ラヒリの『停電の夜に』をきっかけに海外文学を好きになり、現在は移民や、移動することの哲学を考えたい私にとって、大切な作品になりそうだと今回気がついた。

 

それにしても、本を読んで思ったことを書くというのは案外難しいものだ。好きな作品であればなおさら、自分の言葉で語ってしまうことが不安で、よく吟味しなければ、と思いなかなか文章にならない。書く、という実践の難しさはまた考察してみたいことの一つであり、ここで長々と書くつもりはないが、書いてしまうことへの不安が募り、しょっちゅうその難しさに言い訳のように(というか実際、言い訳なのだが)言及してしまう。原文で読む試みの記録は、まだこれで2回目にすぎないが、どういった形式で書くのがいいのか検討もつかない。

 

私の見立てでは、この作品の軸にあるのは「遠く離れた人を思うこと」だ。これは例えば、'life, I realized, was being lived in Dacca first. I imagined Mr. Pirzada's daughters rising from sleep, tying ribbons in their hair, anticipating breakfast, preparing for school. Our meals, our actions, were only a shadow of what had already happened there, a lagging ghost of where Mr. Pirzada really belonged.' という少女の気づきにも見られる。少女は、アメリカで生まれ、アメリカについて学校で学ぶ。インドやパキスタンについて考えること、それらが現実味を帯びて彼女の生活に立ち現れることは、ピルザダさんが食事に来るようになるまでなかった。ピルザダさんが食事に来るのは、テレビのニュース報道で、彼の妻と娘たちの安否を確認するためだった。彼がニュースを観る様子を、ラヒリは少女の視点からこう描写する。 'As he watched he had an immovable expression on his face, composed but alert, as if someone were giving him directions to an unknown destination.'  遠く離れた妻と娘たちに思いを馳せるとき、人にこのような表情をさせてしまう状況の悲惨さ。それにもかかわらず、いつもチョコレートやキャンディといった可愛らしく包装されたお菓子を少女にくれるピルザダさん。そんな彼の様子を見て、少女はピルザダさんの家族に思いを巡らせた。

I put the chocolate in my mouth, and then as I chewed it slowly, I prayed that Mr. Pirzada's family was safe and sound. I had never prayed for anything before, had never been taught or told to, but I decided, given the circumastances, that it was something I should do.

他者の生存を祈ること、他者への呼びかけ、こういったことは、人間にとって私が私の生を生きるのに必要なことなのだ。(これは、最近読み進めていた哲学書に書いてあったような気がするが、定かではない。内容を忘れないうちに、間違えてでもまとめてみるつもりである。)

チョコレートを食べている間に祈るというのはいかにも子どもらしい感じがするが、そのチョコレートはピルザダさんにもらったものだということを考えると最適な祈りの方法のように思える。ピルザダさんの娘たちは6歳から16歳まで、7人いたのだから少女と近い年齢の子が多かったことだろう。きまってポケットに入れてきた可愛らしいお菓子を少女にあげることは、ピルザダさんにとっても娘たちの無事を祈る、願掛けのようなものだったかもしれない。

ハロウィンに、友だちとお菓子をもらいに通りに出る際、ピルザダさんは少女が見たことのない動揺を見せた。

"Don't worry," I said. It was the first time I had uttered tose words to Mr. Pirzada, two simple words I had tried but failed to tell him for weeks, had said only in my prayers. It shamed me now that I had said them for my own sake.

状況を鑑みるに、"Don't worry" という言葉は簡単にかけられるものではない。実際に子どもだった少女も投げかけることを躊躇した言葉だ。それでも、'It shamd me now that I had said them for my own sake' というのは、彼に、彼のために言わなかったことへの後悔だろうか。確証のない事柄に対して、ピルザダさん自身は心配することをやめられない。表面上は落ち着いて見えても、悪いニュースを警戒している。彼が彼自身に向かって"Don't worry" とは決して言えない、それならばたとえ無責任だと思われる可能性をひっくるめても、少女が彼のために言うべきだったという後悔かもしれない。

 

ハロウィンの晩、状況は悪化した。インドとパキスタンが戦争状態に近づいているという報道のあと、戦争の間、少女がいちばん覚えていたことは the three of them operating during that time as if they were a single person, sharing a single meal, a single body, a single silence, and a single fear. だった。この描写が、両親とピルザダさんの3人しか含まないのは、少女が子どもだからということに加え、移民2世としてアメリカで生まれ育った彼女と、両親やピルザダさんが異なる種類の存在だということがあるだろう。ラヒリの作品にみられるこうした移民2世である人々の視点、描写は私にとって興味深い。

1月にピルザダさんは、ダッカの家に帰っていった。'Just as I have no memory of his first visit, I have no memory of his last.' と少女は回想する。ここに表れる時期の不確定さが、最初に述べた、邦題で訳されているように「ころ」とするのがいいだろう、と私が考える理由だ。何ヶ月かたって、ピルザダさんからはがきが届く。その晩は吉報を祝うため、特別な夕食だった。その席で、少女は、何ヶ月かピルザダさんに会っていないのに、そのときになって初めてピルザダさんがいないことを感じた。

It was only then, raising my water glass in his name, that I knew what it meant to miss someone who was so many miles and hours away, just as he had missed his wife and daughters for so many months. He had no reason to return to us, and my parents predicted, correctly, that we would never see him again.

この、作品の終わりの部分で書かれている少女の回想に、「遠く離れた人を思うこと」のテーマが最もはっきりと見られると思う。

私は現在留学中で、親のいる日本とは8時間の時差がある。それでも、文明の利器のおかげで連絡を取るのには事欠かないし、余程のことがない限り再会できると信じ込んでいる。生きて再び会えるかわからない戦禍のさなか、遠い国から家族を思っていたピルザダさんや、二度と会うこともないであろうピルザダさんを思い出す少女の場合とは全く状況が異なる。遠く離れた誰かを思うこと、というのは自分の属する「今、ここ」を脱している状態にあるといえるだろう。

 

 

「脱自」の様態にあること、それを行為できるということは羨ましい。「今、ここ」を離れることをずっとやりたくて、ようやく留学までこぎつけた。思うような留学生活が送れているかといえば、まだまだ改善点ばかりだ。自分に甘く、全く努力しないわけでもないが、そこそこのところで妥協してしまうことが多かった。それでも、文章を書くことへの憧れが捨てきれない。進路は就職するのが一番現実的ではあるのだが、それへの抵抗としてこのブログで再び文章を書き始めた。ブログとして面白い記事を書けるようになるかはともかくとして、自分の文章が少しでも上手くなればいいと思っている。やはり、目標は「今、ここ」を離れた視点で(かといって浮世離れしてしまうのではなく)文章を書くことだ。そう強く思うきっかけになった文章はまた別にあるのだが、それを読んだときに直観で浮かんだのがラヒリの『停電の夜に』だった。だから私にとってこれは原点でありつづけるだろうと思う。

 

もう少し淡々と内容について書くつもりだったのだが、なんだか最後に自分について語ってしまった。この作品の次は、原題の作品になる。また作品から離れて、気になっていることを書き連ねそうだが、ご容赦願いたい。

ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』を原文で読む その1 "A Temporary Matter"

今回の短編の内容に入る前に、原著と翻訳で違うところがある。邦題は『停電の夜に』だが原題は『Interpreter of Maladies』で、表題作が違うのである。今回読んだ"A Temporary Matter"こそが、「停電の夜に」なのだ。

初めて読んだときはそんなことを知らないから、これが表題作か、とどきどきしながら読んだし、「停電の夜に」が表題作であることにも納得した。全部英語で読み終えたときに、どちらが表題作としてしっくりくるかは気になっている。

 

 

"A Temporary Matter"は、「停電の夜に」という邦題よりもどこか硬質さを感じるな、というのが最初に思ったこと。私は翻訳された文学の文体のやや無機質な感じが好きなのだが、英文はまた、それとも違った感じがするのは英語の言語的性質かもしれないし、単に私が英単語からイメージできるものが乏しいだけかもしれない。読んでいて、ああ、ラヒリらしいと思ったのが作品冒頭で出てくる妻の描写。

She'd come from the gym. Her cranberry lipstick was visible only on the outer reaches of her mouth, and her eyeliner had left charcoal patches beneath her lower lashes. She used to look this way sometimes, Shukumar thought, on mornings after a party or a night at a bar, when she'd been too lazy to wash her face, too eager to collapse into his arms.

Shukumarというのは夫。妻の化粧崩れの変化を描くことで、夫婦関係、距離感の変化を冒頭で読者に印象づける。高校生のときは化粧をほぼしなかったので、化粧を落とさずに寝たあとの顔など知りようもなかったが、大学に入って、もうこの化粧の崩れ方を知ってしまった。最後の when she'd been too lazy to wash her face, too eager to collapse into his arms. に関して、too~to..., too~to...の形がはっきりしているからか日本語で読むときより対になっているように感じた。ここで気になった表現が、too eager to collapse into his arms. の部分。collapseを辞書で引くと、自動詞として使われている。倒れる、崩れる、崩壊するといったふうに。「彼女が顔を洗うにはlazyすぎ、彼の腕にcollapseするにはeagerすぎるとき」というのが文法的に正しい訳だろう。最初に目に入ったときは、後半部分を彼にしなだれかかる、身をまかせるくらいの意味だろうと雰囲気で捉えていたが、よくよく考えると、彼の腕の中に倒れ込み眠ってしまうにはeagerすぎる、というのだからもっと積極的な女性のようだ。

 

物語は、計画的に停電が夕方実施される、その夜ごとに進んでいく。夕飯の準備を軸にした現在の生活、そこから夫の回想に基づいて結婚したばかりの生活の断片が描かれる。なぜこの夫婦はすれ違っているのか。それは6ヶ月前、幸福なものになるはずだった妊娠、出産が死産と終わったのが原因だった。そしてそのとき、夫はそばにいなかった。彼が到着したときにはすべてが終わっていた。

 

夫は、仕事から帰ってきた妻の鞄とスニーカーを片付けながら、 She wasn't this way before. と考えている。彼は35歳だがまだ学生で、そのことに彼はプレッシャーを感じている。授業を持つはずだったが、死産だったことで、半期の猶予をアドバイザーが彼に与えた。妻が仕事に行くために着替え、3杯目のコーヒーを飲んでいるとき、彼はまだベッドにいる。

 

話の筋も結末も何度か読んでわかっているから、この夫婦の様子と夫視点の考えを追っていくとき、この夫の鈍さに苛立ち、同情もする。死産という辛い経験、おそらく当事者にとって言葉にしがたいほどの経験の後から、夫婦は全く違う方向を向いていたのだと思う。夫はこう回想している。

In the begging he had believed that it would pass, that he and Shoba would get through it all somehow. She was only thirty-three. She was strong, on her feet again. But it wasn't a consolation.

「彼と妻はなんとかして乗り越えられるだろう、と彼は初めのうちは信じていた。」私は、この文に、夫の希望的観測にひっかかるものがある。死産は確かに、子どもを待つ夫婦に対して同時に、最悪の体験として現われるだろう。だが妊娠、出産に関して、様々な身体の変化を何ヶ月と経験し、痛みに耐える女性と、身体変化の伴わない、傷つかない男性との体験が同列で語られるはずがない。夫は、妻を軽んじてはいない。ただ彼はあまりにも楽観的で、妻の強さに頼りすぎている。確かに彼の妻は強く、まだ33歳だった、だがそれが慰めにはならなかったと彼は気がついたように、事態は時間に任せていいものではなかったようだ。彼は、自分の悲しみと妻の悲しみが同一のものではないと気がついていて、だからこそ何もできなかったのかもしれない。彼の観察眼をもってすればそれくらい気がついただろう。死産のとき、その場にいなかったことが相まって、彼は妻にどう接していいのかわからなかったのかもしれない。死産になったことは誰のせいでもなかった。ただ、死産というそれぞれにとっての経験の違いがそのまま、悲しみが時間で癒えても夫婦がすれ違う原因として残りつづけたのだと思う。

 

停電の夜ごとに、夫婦はろうそくの明かりの中、黙っていたことをお互いに打ち明け合う。妻の提案で始まった、久しぶりにともに夕食を取り、話す時間をいつしか夫は楽しみにしていた。電気が止まる前に洗い物をする夫婦。

They stood side by side at the sink, their reflections fitting together in the frame of the window. It made him shy, the way he felt the first time they stood together in a mirror. He couldn't recall the last time they'd photographed. They had stopped attending parties, went nowhere together. The film in his camera still contained pictures of Shoba, in the yard, when she was pregnant.

 

きれいな描写だと思う。窓に映る姿が、窓枠に二人収まっている。彼は初めて一緒に鏡に映ったときの気恥ずかしさを思い出す。一方で彼は、最後にいつ二人で写真を撮ったか思い出せないでいる。パーティーに参加することもどこかに一緒に出かけることもなくなったからだ。それでも、彼のカメラのフィルムには、妻が妊娠しているときの、庭にいる姿が映っている。

 

実際はシンクの端と端に立っている夫婦。映っている姿は、どれも今はありえないものとなってしまっている。読んでいて切なくなる。夫はまだ、窓に映る自分たちの姿のように、昔撮った写真のように、彼らが一緒になることを期待している。

 

結末まで、色々と書こうとも思ったができなかった。いくつか伏線となりそうなことはすでに書いてしまったが、最後まで書いてしまうのは惜しい気がするのでこのあたりでやめようと思う。

 

ラヒリの英文は、特に難しくはなかった。いくつかわからない、あるいはニュアンスを確認したい形容詞や動詞があり辞書は引いたが、ストーリーを追うだけなら飛ばしても読めそうだった。だがこうやって引っかかりながら読む体験は、今までの再読とは全く違うものにしてくれた。そもそも言語が違うのだから当然かもしれないが、今までは、読んでいて湧く感情のそのときどきの違いは実感していたが、文章に対してあまり新しい発見はなかった。今回は、自分の感想もやや変化はあるかもしれないが、それ以上に文章の表現や、ラヒリの細やかな描写に注意が向かった。引用した部分の窓と窓の外の景色や、書けなかったが妻の髪などは、物語全体を通して記述があり、こうした細部が、日常を描くのに必要なのだろうと思った。

 

 

ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』との出会い

『停電の夜に』は現在私が最も好きな作家、ジュンパ・ラヒリの短編集であり、再読を繰り返している思い入れのある本だ。

本との出会い、という表現は大げさなように思っていたが、この本との出会いが今の私に大きな影響を与えたのは間違いない。

高校一年生の夏、オープンキャンパス参加という名目で何日か京都観光をした。肝心のオープンキャンパスの内容はもはや覚えていない。うだるような暑さで、舗装の照り返しにくらくらしながら、冷たいだけで美味しくないうどんをコンビニで買って会場に向かい、終わったあとにソフトクリームを食べたのは覚えている。こんなふうに食べ物のことだけは覚えているのでしょっちゅう親に呆れられる。オープンキャンパスの前日、京大の近く、だったかは忘れたが自転車圏内のところのカフェに入った。店内には他の客がおらず、お店の女性に質問される形で私がオープンキャンパスのために来たこと、読書が好きなことなどを話した。会計のときに、下鴨神社の古本祭のチラシを、行ってみるといいですよ、とくださった。そんなものがあるとは知らなかったが、もともと神社には行こうとしていたので開催日に合わせていくことにした。初めて行った古本祭は、それはもう最高だった。立派な木々のおかげで境内はかなり暑さが和らいでいたし、歩いても歩いても本ばかり。その頃の私は、中学二年のときに読んだ『人間失格』を皮切りに日本文学に夢中になっていた。とはいっても、太宰を中心に芥川、漱石と読んでいたくらいで、太宰を先に好きになったからいまだに三島を読んだことがない(恥ずかしながら)また、祖母の知人から譲り受けた、世界文学全集を1巻から順番に読もうと、わからなくても少しずつ読んでいた。「文学」ばかり読んでいたのは、読み終わって後悔することがないからだった。勉強はわからなければすぐつまらないと思ってしまうことが多かったが、文学は難しいものがつまらないとは思わなかった。難解で私にはわかりそうにない、と思っても、とにかく読み通したかった。中高一貫で、高校受験がなかったから本を読むのを推奨されていた環境だったのも私には幸運だった。同級生の読まない難しい本を読む自分、に酔っていた面もあるのは認める。理由がなんであろうと、多感なあの時期の私のそばにあったのは、文学を主とする本たちだった。文学に夢中になると、「文学」に当てはまらない小説は急に薄っぺらく思えてくる。だから、古本祭というのはかなりの有象無象に思えた。いつの時代のものかわからない画集に、料理本。名作としては知られていない、無数の小説。それでも見ていくうちに、出店している古本屋によってカラーが違うのに気がつく。5冊でいくら、などと文庫本をまとめ売りで安くする店、古い雑誌や写真集がメインの店、学術書ばかりの店、比較的最近の本も多く幅広いジャンルのある店。

『停電の夜に』を見つけたのは、雑多な本を並べている店だった。単行本のコーナーで新しそうな背表紙が目にとまった。手に取ると、ハードカバーより軽く、やわらかい紙、そして香辛料の写真の赤っぽい表紙に驚いた。停電の夜、だからもっと暗い表紙なのかと思っていたのだ。

新潮社のサイトより。

海外の存命している作家の作品はこのときまでほとんど読んだことがなかった。最初の数行で、これは良さそうだと思った。背表紙に「O・ヘンリー賞受賞」とも書いてあったのも決め手になり購入。

 

買ったものの、すぐには読まなかったような気がする。少しして読み始めて、一気に読んでしまうのが惜しいと思った。一日に一つの短編を読み進め、どの短編もそれぞれ好きだった。学校の図書室にもあること、そして新潮クレスト・ブックス | 新潮社の存在を知る。クレストブックスという選択肢が加わったことで、世界が大きく広がった。「今・ここ」にいる私が、「今・ここではないどこか」を感じられるようになったのだ。それからは図書室にある海外文学を背表紙や裏表紙の情報だけで読むようになった。それまで私が好んでいた文学は、内省を深めるものとして読んでいたが、クレストブックスなどの存命の作家が書いている文学は、外に、知らないところに目を向けるものとして私の中に入ってきた。

 

『停電の夜に』を読むことがなければ、留学している今は確実に存在しなかったと思う。英語のレベルが低いまま、留学には来てしまったが、生活が少し落ち着いてきたのでようやく原文を読み始めた。日本語訳は既に3回は読んでいるので、内容はほとんど頭に入っており、読み進めやすい。英語だとところどころ引っかかるのだが、かえって新しい発見があり面白い。せっかくなので、英語の勉強もかねて短編ごとに、ここでまとめていこうと思う。

 

一作目はこちらから。

hibinodokusyokiroku.hatenablog.com

鈍行列車で一人旅、福島へ(後編、会津観光)

前回書かなかったが、会津旅行には猪苗代から使える会津ぐるっとカードを使用した。2日間会津の列車とバスが乗り放題で、大人2,720円(2024年12月)下調べでは十分元が取れそうだったので、購入した。私は使用した記憶がないがお店などの割引特典もあった。

会津柳津駅から。2022年10月に只見線は全線で運転を再開したそう。


会津柳津から西若松まで、只見線で50分ほど。そこからバスと徒歩で、会津若松城鶴ヶ城)に向かった。せっかくなのでボランティアガイドの方に案内してもらった。残念なことにまた写真がほとんどない。石垣の上や、茶室なども案内してもらったのに。

唯一撮っていた城の写真。


意外だったのが、台湾から来た人がたくさんいたこと。台湾映画のロケが、只見線で行われたとおっしゃっていた気がする。調べてみると、台湾とのつながりが色々とあるようだ。

www.minpo.jp

tadami-line.jp

 

会津若松城からは、徒歩で宮泉銘醸株式会社へ向かう。有名なのは「写楽」だと思うが、「會津宮泉」の吟醸酒を購入した。さわやかな甘口で、日本酒が苦手な人でも飲みやすそうだ。夏にサークルの宅飲みに持って行った際には好評だった。

試飲して購入できる。おちょこなどもあった。

宮泉で購入したのは4合瓶で、のちのちその重さに苦しめられることになる。そのときはまだ美味しい日本酒を買えた喜びで足取り軽く、お昼ご飯を探しに歩き始めた。昼ご飯には郷土料理を食べたかったのだが(「こづゆ」などが代表的な郷土料理のようだ)残金も時間もわずかだったため、Googleマップで見つけた「宮古そば 分家 吉兵衛」に。スナックなどが入る雑居ビルの3階にあり、最初は通り過ぎてしまった。この「宮古」は沖縄の宮古ではなく、喜多方市宮古であり、県内でもそばの美味しいところとして知られている。

ビルの中でこの店だけ雰囲気が違う。

近くに市役所があるそうで、職員らしき人々で賑わっていた。接客が非常に丁寧で、食後に果物まで出てきたのには驚いた。そこまでそばは好きではないが、ここのそばは麺もつゆも本当に美味しかった。一人なので早々に食べ終わり、店をあとにする。女将さんが私相手にも丁寧にお見送りをしてくださり、心もあたたかくなった。

 

次の目的地は、飯盛山方面。ちょうどいい時間のバスがなく、どうせ待つならその間に歩いてしまおう、と思って歩き始めたのだが、旅行で疲れた身体にすべての荷物、さっき買った宮泉の4合瓶が追い打ちをかけてくる。山に向かうからか、近づくと登りが増えてなかなかきつかった。白虎隊自刃の地を見た後、さざえ堂を見に行った。さざえ堂を見るのが会津での一つの目的だった。

正面から見たさざえ堂。千社札が多く貼られている。

観光客は私の他に3組ほど。チケットを買い中に入る。上まであがって、いつのまにか下っている。一方通行なので参拝者同士すれ違うことがないという。不思議な建物で面白い。構造は横からの写真の方がわかりやすいだろう。

横から。二重らせん構造になっている。

中は仄暗く、私の前に登っていった夫婦の足音がわずかに聞こえるほかは木のきしむ音だけで、なんとなく不気味だった。かなり勾配があり、天井も高くないので登りにくかった。さざえ堂を出たあとはそのまま山を下り、あわ餅を買って食べた。素朴で美味しかった。電車に乗るためのバスの時間までまだ時間が残っていたので、最後に赤べこの絵付け体験に行くことにした。他のお客さんが談笑しながら楽しげに作っているのを横目に、バスの時間がせまりつつあったこともあり、黙々と作った。工作は好きなので楽しめたが、この体験は人と行った方が楽しいだろうと思う。そのあと、ようやく徒歩ではなくバスに乗り、会津若松城駅まで。

16時頃に会津若松駅についた。

ここからまた鈍行列車で、新潟まで向かう。新潟は駅から夜行バスに乗るだけなので観光する時間はないが、新潟駅にあるぽんしゅ館目指して出発。

ややわかりにくいところにあるぽんしゅ館。

お金を投入してコインとおちょこを手に入れ、たくさんの日本酒の中から選ぶ。日本酒によって必要なコインの枚数が変わる。夜行バスが控えているので、5枚のコインで3種類試した。ここでも日本酒を買って帰りたかったが、リュックに入りそうにないので諦めた。

 

これが会津での2日目。やけに疲れたと記憶していたが、スマホの記録では1万8千歩程度、11キロ弱だった。やはり荷物に加えた4合瓶が原因だろう。

夜行バスは某テーマパークに行くのか、ライブでもあるのか若い子で賑わっており(頼むからどんなに楽しみでも消灯したらさすがに黙ってほしい)私は友人へのメッセージで悪態をつきまくった。大阪にようやく着いて、どうして夜行バスにしたのかと毎度のごとくため息をつきながら家まで電車で帰った。自分の無計画さを野放しにすると、かなり大変な旅程になる。でもこの気楽さが好きなので、一人旅をやめることは当分ないだろう。何カ月か前の自分、お疲れ。日本酒は美味しかったよ。