カポーティの短編集、『ここから世界が始まる』を読んで

『ここから世界が始まる』 トルーマン・カポーティ初期短編集 小川高義

書影

文学を大学などで学んでいるわけではないので、本を読んだ感想を公開することは非常に緊張するなあと改めて思う。

 

カポーティの作品は『ティファニーで朝食を』しか読んだことがないし、それもあまり理解できなかった。

 

この本を買ったのは、「ホームレス、老女、子どもなど社会の外縁に住まう者に共感し、仄暗い祝祭的物語へと昇華させた」という帯の文言に惹かれたから。

「社会の外縁に住まう者」は今私が興味を持っているテーマと関わりが深い。

 

収録作品は以下の通り。

「分かれる道」「水車場の店」「ヒルダ」「ミス・ベル・ランキン」「もし忘れたら」「火中の蛾」「沼地の恐怖」「知っていて知らない人」「ルイーズ」「これはジェイミーに」「ルーシー」「西行車線」「似た者同士」「ここから世界が始まる」

(編集後記、作品解題、カポーティ略伝、訳者あとがき、解説 天才作家の天才的習作)

 

私が一番好きだったのは「これはジェイミーに」

 

「これはジェイミーに」

テディは日曜の朝公園で、犬を連れた女性に出会う。

まだ七歳ほどの男の子であるテディが、犬をかわいがる様子は微笑ましいが、読者は犬を連れた女性は、病気の息子(九歳くらい、彼がジェイミーである)の代わりに犬を散歩させていると知ることになる。

テディの幼さが、様々な面から描かれているのがこの小説に深みをあたえていると思う。

幼い=無邪気=かわいい、しかし無知→無知が故の・・・

という、よくある構図も確かにあるが、それを超えていると思う。

犬を連れた女性の様子や、テディの周りの人間(子守のミス・ジュリーや父母など)という「大人」の描写が十分にあることで、「子ども」という社会の外縁にいるテディの姿が浮かび上がる。

犬を連れた女性は母親であり、テディの母親との対比にもなっている。幼い息子を持つ母としての共通点はあるのに、両者の差は大きく、この点もまた考えさせられた。

 

短編集の面白いところは、再読した際に好きな作品が変わるところだ。また機会があれば、他の作品も紹介したい。